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第一章:遺跡の少女

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-11-23 16:55:09

 遺跡は、森の最も古い一角にあった。

 かつて「魔法帝国アストラル」が栄えた時代の遺構であり、今では蔦と苔に覆われた石柱と崩れかけた壁だけが、往時の栄華を偲ばせている。

 セレインがそこに到着したとき、遺跡の中央にある祭壇から青白い光が噴き出していた。魔法陣が暴走している。空気が振動し、周囲の植物が不自然に成長と枯死を繰り返していた。

 そして祭壇の前に、一人の少女が倒れていた。

 人間の少女だ。年の頃は十五、六といったところか。粗末な旅装束を身に纏い、背中には古びた革の鞄を背負っている。栗色の髪が乱れ、額から血が流れていた。

 セレインは状況を瞬時に理解した。

 少女が遺跡に侵入し、何らかの理由で封印を解いてしまった。そして暴走した魔力に巻き込まれて意識を失ったのだろう。

「愚かな」

 彼は小さく呟いた。だが足は既に動いていた。

 杖を掲げ、古代語で詠唱を開始する。彼の専門は時空間魔法と植物魔法の融合領域だが、封印術の基礎も心得ている。暴走する魔法陣に対し、逆位相の魔力を注ぎ込んで相殺する。

 青白い光が激しく明滅し、やがて静まっていく。魔法陣の暴走が収まり、遺跡は再び静寂を取り戻した。

 セレインは少女のもとへと歩み寄った。

 まだ息はある。脈拍も安定している。額の傷は見た目ほど深くない。魔力による一時的なショックで気を失っただけのようだ。

 彼は簡易的な治癒魔法を施した。傷口が塞がり、出血が止まる。だがそれ以上のことはしない。彼女が目覚めるまで待つ必要はない。村まで運んでいけば、あとは村人たちが何とかするだろう。

 そう考えて少女を抱き上げようとした瞬間――彼女の目が開いた。

「う……」

 琥珀色の瞳。まだ焦点が定まっていない。少女は混乱した様子でセレインを見上げた。

「誰……?」

「動くな」

 セレインは短く告げた。

「君は遺跡の魔法陣を暴走させた。一歩間違えれば命を落としていた。いや、それどころか森全体を巻き込む大惨事になっていた可能性もある」

 少女は瞬きをした。それから自分の状況を理解したのか、慌てて身を起こそうとする。

「ご、ごめんなさい! 私、その……道に迷って、それで遺跡を見つけて……中に入ったら、石版があって、それに触れたら突然……」

「結果的に封印を解除した」

 セレインは冷たく言った。

「古代遺跡の封印は理由があって施されている。好奇心だけで触れるべきものではない」

 少女は項垂れた。だが次の瞬間、彼女は顔を上げてセレインをまっすぐ見つめた。

「でも、あなたが助けてくれたんですよね? ありがとうございます」

 その言葉に、セレインは僅かに眉をひそめた。

 感謝されるのは、慣れない。いや、正確には「久しぶり」だ。どれくらい久しぶりだろう。五十年? いや、もっと前か。

「礼には及ばない。ただの偶然だ」

 彼はそう言って立ち上がった。

「君の村はどこだ? 送っていく」

「リムルの村です。でも、もう夜だし……大丈夫ですか?」

「エルフの夜目は人間とは比較にならない。問題ない」

 セレインは少女に手を差し伸べた。彼女はその手を取って立ち上がる。

 そのとき、セレインは気づいた。

 少女の手が、異様に温かいことに。

 エルフの体温は人間よりも低い。平均で摂氏三十四度程度。対して人間は三十六度から三十七度。たった二、三度の差だが、触れたときの感覚は大きく異なる。

 まるで小さな暖炉に触れているようだ、とセレインは思った。

 そして気づいた。ああ、そうか――これが「生」の温度なのだと。

 激しく燃え、速やかに消えていく、刹那の炎の温度。

「あの……」

 少女の声に、セレインは我に返った。

「何だ」

「お名前、教えていただけますか? 命の恩人の名前くらいは知っておきたいです」

 セレインは一瞬躊躇した。だが断る理由もない。

「セレイン。セレイン・アルヴェリアスだ」

「セレイン様……」

 少女は嬉しそうに微笑んだ。

「私はミラです。ミラ・エルトリア。よろしくお願いします!」

 その笑顔に、セレインは何も答えなかった。

 ただ無言で歩き出す。ミラは慌ててその後を追った。


 リムル村までの道のりは、夜の森の中を進む静かな時間だった。

 セレインは先頭を歩き、ミラはその後ろを必死についていく。月明かりの中、木々の影が揺れ、遠くで梟の鳴き声が響く。

「ねえ、セレイン様」

 ミラが話しかけてきた。

「セレイン様はエルフなんですよね? 初めて会いました。エルフの方って、本当に長生きなんですか?」

「個体差はあるが、平均寿命は千年から千五百年だ」

「せ、千年!?」

 ミラは驚きの声を上げた。

「それって……人間の十倍以上じゃないですか! すごい……」

「何が素晴らしいのか理解しかねる」

 セレインは無感情に答えた。

「長く生きることは、必ずしも幸福を意味しない」

「でも、色々なことを経験できるじゃないですか。いろんな場所に行って、いろんな人に会って……」

「そして皆、去っていく」

 セレインの言葉に、ミラは黙り込んだ。

 しばらく沈黙が続いた。だがミラは諦めなかった。

「セレイン様は、どれくらい生きてるんですか?」

「五百六十年だ」

「ご、五百六十……」

 ミラは目を丸くした。

「じゃあ、私のお婆ちゃんのお婆ちゃんのお婆ちゃんくらいの時代から生きてるんですか?」

「おそらくそうだろう」

「すごい……じゃあ、大昔の出来事とか、全部覚えてるんですか?」

「記憶は残っている。だが『大昔』という感覚はない」

 セレインは立ち止まり、振り返ってミラを見た。

「君にとっての『昨日』は、私にとっての『五年前』に相当する。君にとっての『一年前』は、私にとっての『五十年前』だ。時間の流れ方が違う。理解できるか?」

 ミラは首を傾げた。

「う〜ん……よくわからないです。でも、セレイン様にとって、私みたいな人間って、すごく慌ただしく生きてるように見えるんですか?」

「そうだ」

 セレインは再び歩き始めた。

「人間は焦っている。まるで明日が来ないかのように。それは理に適っている――実際、君たちには時間がないのだから」

 その言葉は冷酷に聞こえたかもしれない。だがミラは怒らなかった。むしろ真剣な表情でセレインの背中を見つめた。

「それって……寂しくないですか?」

 セレインは答えなかった。

 やがて、木々の向こうに明かりが見えてきた。リムル村だ。


 村の入口で、セレインはミラと別れようとした。

「ここまでだ。あとは自分で帰れるだろう」

「あ、待ってください!」

 ミラは慌ててセレインの袖を掴んだ。

「お礼、何もしてないのに……せめて村に寄っていって、ご飯でも食べていってください!」

「必要ない」

「でも!」

 ミラは食い下がる。

「命を助けてもらったのに、お礼もしないなんて……私、気持ちが収まらないです」

 セレインは溜息をついた。人間の「礼儀」という概念は、時に非常に面倒だ。

「では、借りができたということにしておこう。いつか私が何かを頼んだとき、それに応えてくれればいい」

「本当ですか!?」

 ミラの顔が明るくなった。

「はい、約束します! 何でも言ってください!」

「では、さらばだ」

 セレインは踵を返した。

「あ、待って! また会えますか?」

 ミラの声に、セレインは答えなかった。

 ただ夜の森の中へと消えていく。

 ミラはその背中を、月明かりの中で見送った。


 それから三日後、セレインの住処に珍客が現れた。

 朝靄の中、誰かがユグノアの大樹の根元を訪れている気配がした。セレインが外に出ると、そこには見覚えのある少女が立っていた。

「ミラ?」

「おはようございます、セレイン様!」

 ミラは満面の笑みで手を振った。背中には大きな荷物を背負っている。

「なぜここに?」

「探しました! 三日かかっちゃいましたけど……」

 彼女は得意げに言った。

「村の古老に聞いたんです。『森の奥に、エルフの魔導師が住んでいる』って。それで、方角を頼りに……」

「無謀だ」

 セレインは眉をひそめた。

「この森には危険な魔物も生息している。一人で歩き回るものではない」

「大丈夫です! 私、魔物には慣れてるから」

 ミラは腰の短剣を叩いた。

「それより、セレイン様にお願いがあって来ました」

「お願い?」

「護衛です」

 ミラは真剣な表情で言った。

「私、これから北の都まで旅をしなきゃいけないんです。でも一人じゃ危ないから……セレイン様、私の護衛をしてくれませんか?」

 セレインは驚いた。いや、驚いたというよりは呆れた。

「断る」

「え!? でも、この前『何かを頼んだとき応えてくれればいい』って……」

「それは君が私に頼むという意味だ。逆ではない」

「そんな〜」

 ミラはがっくりと肩を落とした。だが次の瞬間、彼女は真剣な目でセレインを見た。

「お願いします。私、どうしても北の都に行かなきゃいけないんです。お父さんが、病気で……都にしかない薬草を手に入れないと……」

 セレインは少女の目を見た。

 嘘ではないようだ。だが、それでも彼には関係ない。

「村の冒険者ギルドに依頼すればいい」

「お金がないんです……それに」

 ミラは俯いた。

「セレイン様以外、信頼できる人がいないんです」

 その言葉に、セレインは何かが引っかかった。

 信頼。

 三日しか会っていない相手に対して、なぜそこまで。

「君は愚かだ」

 セレインは冷たく言った。

「私を信頼する理由がない。私は君を助けたが、それは森を守るためだった。君個人のためではない」

「でも、助けてくれたじゃないですか」

 ミラは真っ直ぐにセレインを見つめた。

「それだけで十分です。セレイン様は、見ず知らずの私を助けてくれた。それって、優しいってことじゃないですか」

「優しさではない。合理的判断だ」

「でも、結果的に私は助かりました」

 ミラは微笑んだ。

「理由がどうであれ、セレイン様は私の命の恩人です。だから、信頼します」

 セレインは黙った。

 この少女は、危険なほどに純粋だ。世界の残酷さを知らない。いや、知っていても、それでも人を信じることを選んでいる。

「……期間は?」

 セレインが訊ねると、ミラの顔が輝いた。

「一年です! 北の都まで往復で、だいたい一年あれば十分だと思います!」

「一年か」

 セレインは考えた。彼にとって一年とは、人間で言えば三週間程度の感覚だ。研究の合間の、短い散歩のようなもの。

 そして何より――彼は思い出した。

 この少女の手の温もりを。あの、生の炎のような熱を。

 もう一度だけ、あの温もりに触れてもいいかもしれない。

 どうせすぐに終わる。一年など、瞬きほどの時間だ。

「わかった」

 セレインは言った。

「条件がある。旅の間、君は私の指示に従うこと。危険な行動は慎むこと。そして――」

 彼は少女の目を見た。

「一年後、必ず別れること。それでいいか?」

「はい!」

 ミラは嬉しそうに頷いた。

「約束します! 一年間、よろしくお願いします、セレイン様!」

 こうして、セレインとミラの旅が始まった。

 この旅が、彼らの人生を永遠に変えることになると――二人はまだ、知らなかった。

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